***染井 | 吉野*** |
かすかに花の香りの混ざる春の風に乗り、ふわりふわりと淡いピンクの花弁が舞い落ちてくる。今がちょうど見頃のこの花は日本人が愛してやまない春の風物詩。
桜と言えば、お花見と言う大義名分の元に繰り広げられる大宴会が即座に思い出される。
やってることはコンパや飲み会と対して変わらないのだけれども、「花見」と言うだけでいつもと違った健全なイメージになるからなんとも不思議だ。
そしてその飲み会には、涼介も啓介も毎年必ず縁があった。なんといっても見目麗しい高橋兄弟だ。女性を誘うにはいい口実になるので、大学絡みのお誘いが非常に多い。
だけど、今日は珍しく二人きりで桜を見ている。
人数的にも雰囲気的にも、宴会というよりはお花見デートと言ったほう方がしっくりくるかもしれない。
「今日は飲むペースが遅いようだな」
涼介は言葉と共にガラス製のとっくりを啓介へと差し出した。
「ん〜っ。そうかな?」
反射的に手にしていたおちょこをとっくりの口にあてがいつつ、啓介は言葉を続ける。
「アニキとさしで飲むの久しぶりだろ。なんだか酔うのが勿体ない気がすんだよなぁ」
注いで貰った日本酒を少し口に含み、啓介は照れながらそう言った。
「…………」
うっすらと紅く染まった頬で可愛いことを言ってくれる恋人にクラクラしつつ、涼介は手酌で酒をついだ。そのままぐいっと一気に飲み干す。
「さすがアニキ。飲みっぷりが違うぜ」
にこにこと笑いながら、啓介も負けじとおちょこをからにする。それにまた酒をついでやりながら涼介はしみじみと思った。
前言撤回だ。これはデートではなく、れっきとしたお花見だ。
眼前で大輪の花のような笑顔を振りまく恋人と、美しい夜桜。花が二つあるのだから、表現的には『花見』と表現した方が正しいと思うのだ。なんとも贅沢な花見である。
「よく晴れてるなぁ」
啓介はそうつぶやいて、ふと空を見上げた。
座っている自分の限られた視界では見える範囲が限られてはいるけれど、濃紺の夜空には幾千もの星。腰を下ろしたござの上には小さな重箱に入った色とりどりの料理が並んでいる。
啓介は手にしていたおちょこをござの上へ置くと、満足気なため息を吐き出した。
「たまには外で食うのもいいかも」
綺麗な桜といつもよりすこしばかり豪華な食事。
庭に面した居間の窓から見える桜をながめつつ「花見がしてぇ」とつぶやいた啓介の声を聞き止めた家政婦さんが用意してくれたものである。気を利かして重箱に詰め込んでくれたそれは、花見の雰囲気作りに一役かっていた。
「なぁ、アニキもそう思わねぇ?」
「ああ。そうだな」
「自分ちの庭ってのが味気ねーけど。贅沢は言えねぇよな」
ぼそりと言った啓介にちょっと笑い返して、涼介は手にしていた箸を置いた。
「啓介、このサクラの名前を知ってるか?」
突然の問いにキョトンとした表情を見せながら、啓介は即答した。
「知らねぇ」
予想通りの答えに涼介は苦笑をする。まったくもって可愛い弟だ。
「染井吉野と言う」
涼介はほぼ満開状態の桜を仰ぎつつ優しく言った。
「この種類が気象台の標準木なんだ」
「標準木?」
「そうだ。開花宣言は決まった場所にあるこの桜の花が開いたら発表になる」
「へぇー。やっぱアニキって物知りな」
啓介は心底感心した声を出す。開花宣言の基準なんて、気にしたこともなかった。
「今年の開花は早かったから、レッドサンズの花見も早めに設定しないとな」
にっこりと優美に笑いかけられて、嬉しくなる。
涼介の優しい笑顔は啓介の大のお気に入りだ。この笑顔を見せられると心の中がほんわかと暖かくなって、幸せな気持ちでいっぱいになるのだ。
「今年は藤原も呼ぶぞ」
今シーズンから本格的に始動するプロジェクトD。年下のぼんやりとしたライバルは、新しくチームメイトになる。ダブルエースとして共にバトルフィールドへ立つのだ。
「新しいチームも作るしってか?」
「あぁ。親睦も大事だからな」
涼介は、今度は見せつけるようにニヤリと笑って、
「ついでにあいつは未成年だから足になる」
そうサラリと言い放った。
「うわっ。アニキひでーの」
「毎年大量に飲んでベロベロになってる奴がなにを言う」
涼介は間髪入れずに言った。
本当は酒に酔って妙に色っぽい啓介を他人に見せるなんて許せないのだが、そうも言ってはいられない。規律を守るためには、たまに羽目を外すことの出来る楽しみがあった方がいい。要は飴と鞭みたいなものだ。更に親睦も深まるとなれば一石二鳥。
「ほどほどにしろよ。俺の堪忍袋はそんなに丈夫に出来てないからな」
念を押すように言うと、啓介は「は〜い」と間延びした返事をしてよこした。
何に対して涼介の堪忍袋の緒が切れるのかは、いまいち理解していない啓介である。
気を取り直して腹ごなし……と思った啓介の目の前にひらひらと一枚の花弁が落ちてきた。
「ありゃ?」
それは上手い具合に卵焼きの上へと乗っかった。黄色とピンクの配色が良くて、なんだか妙に美味しそうである。それを見て啓介はふと思った。
「桜って食えんの?」
考えていることをそのまま口に出してしまうのは、涼介と一緒だからだ。この兄は小さな頃から聡明で、啓介の疑問になんでも答えてくれる。
「食える」
涼介の即答に、啓介はじっと桜の花びらを見つめた。
「塩漬けとかあるぜ。お湯に入れると花開くんだ。お祝いの席には振る舞われることが多いな」
そういわれると飲んだ気がするけど……。すっかりさっぱり覚えていない。両親の仕事柄パーティなんかも行ったりするが、息が詰まるだけなのでいつも途中で逃げてきてしまうのだ。それに対して涼介はパーティでもなんでもそつなくこなす。
「それってうまい?」
「いや。塩辛いだけだ」
塩辛い桜……。
ピンクだからきっと甘いのでは?っと単純に思っていた啓介はちょっとがっかりした。
こんなに綺麗な色をしてるのに、美味しくないなんてなんだか損してる。
「和菓子の上に乗っていることもあるぜ」
「ふ〜ん」
塩漬って事は保存食なわけで……じゃあ生は?
「じゃあこれは?」
ついさっき落ちてきたばかりの桜の花びら。
一番新鮮な状態(?)だと思うのだけど、どうなんだろう?
「………食べてみるか?」
涼介は言葉とともに、玉子焼きの上にある花びらを箸でつまみ上げた。
そのまま自分の口元まで運んで口に含み、箸を置く。
「?」
思わずその様子を目で追っていた啓介は、涼介の突然の行動に驚いた。
てっきり自分が食べさせられるものだとばかり思っていたのである。
涼介はそんな啓介の様子に微笑むと、弟の茶金の髪へと指を差し入れた。そっと唇を寄せ、啓介のふっくらとした唇へと重ねる。少し湿った柔らかい感触が気持ちいい。
「んっ!」
突然のキスにちょっと驚いた啓介だが、おずおずと涼介の背へ手を回して、その身体をしっかりと抱きしめる。涼介はその様子に満足げ笑い、自らも啓介の腰へ手を回した。
啓介の歯列を舌先でつつき、『開けろ』と促す。
「んぁ……っ」
素直に開けた口内に侵入を果たし、涼介は行動を開始した。
「…んっ……ふっ」
差し入れられる舌に乗って、啓介の口内へと何かが入ってくる。
それが先ほど涼介が口に含んだ桜だと気づくまでに数秒を要した。その柔らかい物質は涼介と啓介の舌の動きに翻弄され、喉の奥へと入っていく。
「………つ」
啓介は我慢できなくなってコクとそれを飲み込んだ。
その喉の動きを悟った涼介は、意外なほどあっさりと啓介から離れる。
「どうだ?旨かったか?」
耳元でささやかれて、じんっと甘いしびれが身体に広がった。少し顔も熱い気がする。
「飲んじ……まったから、わかんねーよ」
軽く上がってしまった息を整えながら、所在なげに視線を泳がす。
なんだか照れてしまって涼介を直視できない。こんなところでちょっとディープなキスをされるとは思ってもみなかったから。だって庭とはいえ、一応外だし。
「そうか、俺は旨かったぜ」
濡れた唇をパーカーの袖でゴシゴシやっている啓介に向かって、涼介は不敵に言い放った。
「……俺にとっての花びらは、此処と……」
啓介の唇に指で少し触れ、続いてその身体を抱き寄せる。
「此処だからな」
するっと指先で背中のラインをたどり、行き着いた再奥に強めに触れた。
「───── ッ!」
カーッと一瞬のうちに啓介の顔が赤くなる。耳まで赤く染め上げて啓介はまくしたてるように抗議した。
「アニキッ!なんつーこと素面で言うんだよ!」
いつもキザだキザだとは思っているけど、こんなことを言われるとは考えもしなかった。これがまた素面なだけに質が悪い。涼介があの程度の酒で酔うわけがないのだ。
「正直なだけだ。いつでも言える」
更に追い打ちをかけられてフラフラしてきた。今夜の彗星様は口説きモード大全開である。
「……やっぱり庭で良かったかも」
しみじみと啓介はつぶやいた。
こんなことを敷地外でやられた日には恥ずかしさでいてもたってもいられない。
「なにか言ったか?」
「なんでもねーよ」
白々しく聞き返してくる涼介をひとにらみして、啓介は先ほどまで桜の乗っていた卵焼きを口元へと運ぶ。
まぁ桜も満開だし、気分もいいから許してやるよ、アニキ。
口へと放り込んだ卵焼きはほんのりと甘く、啓介を幸せな気分にしてくれたのだった。
おしまい。
アニキに気障なセリフを言わせたかったの…