「好きだから怒るんです」
始まりは、決して間違いではないけれど、全てに当たりでもない一言。
場所は某小学校。1年1組。
時は「がっきゅう」の時間。
担任は、幾分ヒステリックな中年女性教師。
いささか小学校低学年向きではない彼女は、強く先のセリフを口にした。
事件は先週。上級生に掃除をしてもらっていた4月が終わり、いよいよ自分たちで教室の掃除をし始めたその日、きれいになるはずの教室が雑巾投げの場になってしまったこと。
結果…。生徒たちが体験したのは、入学後初めての大きなカミナリで。
驚いて泣き出した生徒達によって、神経質な一部父兄は大騒ぎをし…。
「先生は、みんなが大好きだから怒ったんです」
“がっきゅう”の時間の話し合いで、教師ははっきりとそう言った。
多少の自己弁護が入っていても仕方ないかもしれない。
うちの子を何で叱ったんですかと、怒鳴り込んできたある父兄は、とんでもなく恐ろしげな表情をしていたのだ。
「みんなのお父さんやお母さんだって、悪いことをしたとき怒るでしょう?」
先生の言葉に、半数弱の生徒がコトを理解したように頷く。
残りはきょとんと、納得しない表情のままなのに、彼女は小さくため息をついた。
「だって、お父さんは親で、シツケしなきゃいけないから怒るんでしょ?」
おませな女の子の、素朴な疑問。
「親だって先生だって同じなの。好きな相手にちゃんとして欲しいから怒るの」
時計を気にしつつ、教師として説得しようとしたけれど…。
「えー?なんで?先生は先生でしょう?」
生意気ばかりを覚えた年代の、子供たちに教師は肩の力を落とした。
折りしも響く終業を告げるチャイムの音。
「来週のがっきゅうの時間に続きのお話をしますからね。
とにかく、好きだから怒るんです。わかりましたね?」
それは、強制的な言葉だったのだ。
幾分茶色がかったくせっ毛の高橋啓介は、1年1組の窓側の席に座っていた。
パッチリとした目と、人懐こい性格。
雑巾投げに加わってはいたものの、怒られた事自体もさして堪えてはいなかった。
きっと悪いことをしたんだろう。だから先生怒ったんだ…他人事のようなその認識。
だから、好きだと怒ることが大切なんだとか、そんな先生の言葉はあまり興味がなかった。
退屈な木曜日の5校時、学級の時間。
面白くない勉強よりも、啓介の意識を占めていたのは…。
(兄ちゃん、今日は何して遊べるかな…)
3年生になった兄の涼介とは、木曜日だけが下校時間が一緒になるのだ。
学校でも評判の優等生である兄の涼介は、カッコ良くって、やさしくて、何でも知っていて、勉強も出来て、そのくせ体育だって得意で。
とにかく啓介の自慢の対象だった。
お兄ちゃんのことを考えると頬が緩んでしまう。
かえりの会も無事終わり、啓介はランドセルを背負って教室を出ようとした。
クラスの男子の中で、啓介の身長は真ん中よりちょっと前。体格としても細い部類に入るので、元気いっぱいの行動にもかかわらずランドセルはかなり重そうに見える。
そのせいなのか、それとも啓介の無邪気にあどけない性格からなのか。同じクラスのマリちゃんは、何かにつけて啓介の世話をやきたがった。
この年では女の子の方が体格的にも精神年齢からも、大人のことが多い。マリちゃんは、その代表的な女の子だった。
正直、啓介はマリちゃんが大の苦手だ。
こともあろうか、マリちゃんは「けーすけ君のお兄ちゃんってかっこいいよね。将来マリがけーすけ君のお兄ちゃんと結婚して、お姉さんになってあげるね」などと爆弾宣言してくれたのだ。
もちろん…同じ幼稚園に在園中のことであったけれど、彼女はいまだに「けーすけ君のお兄ちゃん、かっこいいよね」を口にするので、啓介は面白くない。
いつもだったら涼介を誉められると嬉しくてたまらないのだけれど、この場合は別だった。
(マリちゃんはけーすけだけのお兄ちゃんをとろうとするから、好きじゃない)
だから早々に教室を出て、お兄ちゃんと二人っきりで帰るんだ。
そう決心したのに、マリちゃんはランドセルを背負って啓介の机まで笑顔全開でやってきた。
「一緒に帰ろう。けーすけ君」
長い髪を二つに分けて、可愛いピンクのリボンで結わえているマリちゃんは、確かに可愛い子だったけれど。木曜日以外は一緒に帰ろうなんて言わないことがいっそう啓介は面白くなかった。
(マリちゃんはライバルだ)
ふと、そんな認識をもってしまう。
「けーすけ君?」
なかなか動かない啓介を不思議そうに見つめて、マリちゃんは教室を出ようと促した。
「……い」
「え?なぁに?」
「今日はお兄ちゃんと二人で帰る日だから、マリちゃんとは帰らない!」
ぷぅと頬を膨らませて言った啓介のその言葉は、当然の事ながらマリちゃんのお気には召さなかったらしい。
「ひどい。けーすけ君のお兄ちゃんだって、きっとマリと帰るの楽しみにしているはずなのに」
「そんなことないよっ!お兄ちゃんはけーすけと帰るのが楽しみになんだから!」
帰り道、いろんな事を話しながら歩くのは好きだと、涼介は確かに啓介にそう言ったのだ。
普段だったら怒って「もういいっ」なんて言いそうなマリちゃんは、けれど今日は自信ありげな笑みを浮かべて啓介を見た。
その態度に、啓介はついついしりごみしそうになる。
「な、何だよ?」
面白くなさそうにそう言ったのは、啓介の虚勢だった。
文句ばかり言ってくるくせに、ちょっと乱暴に言い返せばすぐに泣いて先生に言いつける。啓介にとっての女の子は、脅威だったのだ。
「啓介君のお兄ちゃん、わたしのこと、好きなのよ」
あまりにもきっぱりと。ふふんと胸を張ってそう言うから、啓介は一瞬何を言われたのかわからなかった。
ゆっくりと、マリちゃんの言葉を反芻して…カチンときた。
「何言ってるんだよ!お兄ちゃんはオレに一番やさしくて、大好きだって言ってくれたんだからな!」
そう。言ったのだ。啓介が一番かわいくて、一番好きだよ、と。
思い出して、啓介の頬が赤くなった。なのにそんな様子をきれいさっぱり無視したマリちゃんは、尚も強気に挑んでくる。
「けーすけ君、いつもお兄ちゃんはやさしいから、怒らないって言ってなかった?」
いきなりどうしてそんなことを言われたのかわからないまま、啓介はこくんと素直に頷く。
友達に、ばっかだなーと言われるような失敗をしても、涼介だけはにっこり笑ってやさしく言うのだ。大丈夫だよ、次はちゃんとできるからね、と。
友達のおもちゃを取ってしまったという、彼の兄と涼介は違う。
なのに、そんな啓介に対してやさしい涼介の様子を聞いても、今日のマリちゃんは自信満々だった。
「それってさー。本当はけーすけ君のこと、本気で好きじゃないんじゃない?」
「なんで?」
思わず、きょとんと訊ねてしまった。
「だって、先生が言ってたじゃない。好きなら怒るって」
何人かのクラスメイトが、面白そうに二人のやり取りを見ているけれど。
なかなか手ごわい事で一目置かれているマリちゃんに相手に、啓介の見方になって一緒に向かってくれようとする頼もしい友達はいなかった。
「そ…それは言ったけど、でも」
でもの続きを、マリちゃんは言わせてくれなかった。
「実はわたし、怒られたの。この前」
「…え?」
「なにやってるんだっ!って。怖い声だったのよ」
あまりにも彼女が自慢気にそう言うから、啓介はパッチリした目をいっそうまん丸くした。
「うそだ。お兄ちゃんは怒らない!」
「怒った!けーすけ君のクツ、いたずらしようとしたら、すっごく怒ったもん」
それは好きだから怒るのとは違うだろう?
小学1年生のクラスで、はっきりそう突っ込んでくれる者は一人もいなかった。だから…。
「マリのこと、好きだから怒ったのよ」
ピッと人差し指を伸ばし、啓介にそう宣言するマリちゃんを前にして、怒るの意味がずれていることに全く気付かないほど、啓介は動揺してしまったのだ。
ランドセルに付けてある涼介とお揃いのキーホルダーが揺れる。
啓介の入学前、いわゆる春休みの時期に家族で1泊の旅行に行って買ったものだ。小さな鈴がついているそれは、耳障りにならない程度の可愛い音を出している。
その音を聞きながら下駄箱に向かった啓介は、少し遅れて大好きなお兄ちゃんが姿をあらわすまでに一つの決心をしたのだ。
マリちゃんよりも、怒られてみせる!!
啓介のちょっとずれた決心など全く知らない涼介は、さようならの挨拶がすむと同時に教室を出た。
ただでさえ3年生の教室のほうが下駄箱に遠いのに、今日は来週の遠足の注意で担任の話が長かった。
おやつは500円以内だとか、水筒の中は水かお茶だとか。
1週間も先の、プリントにみんな書いてあるような内容を、どうしてああも説明したがるんだろうと内心いらいらしながら聞いていたのだ。
弟が下駄箱で待っているはずだ。
啓介は甘ったれで泣き虫だから、早く行ってやらないとベソをかいているかもしれない。
廊下を走ってはいけません、の常識的な決まりにしたがって、走りたいのをぐっと堪えて下駄箱に向かう。
数人の児童に混じって、大きなランドセル・黄色い帽子の1年生を視界に入れたとたん、涼介の表情はやわらかくなった。
「啓介。遅くなってごめん」
声をかけると、きょとんとした表情が振り向いた。
テレビに出ているアイドルだとか、隣のクラスの可愛いと評判の女の子など、涼介は可愛いと思ったことがない。顔の作りがいいとか、声がきれいだとか、そういう意味では十分同意は出来るけれど、だからといって好きとか嫌いとかの話は別だった。
心底かわいいと思うの弟だけだ。
コロコロ変わる表情は見ていて飽きないし、啓介がにっこり笑うと幸せになる。泣かれると、どうしていいのか分からなくなる。きっと、泣いている啓介以上に自分はつらくなるんだと、涼介はそう思っているのだ。
「さあ、帰ろう?」
上履きをクツに履き替えて、涼介はにっこり笑う。
それが啓介の大好きな笑顔だったから、ついつい、啓介は笑い返して右手を差し出しかけて…。
(あ!ダメだ!)
慌ててそれを引っ込めた。
「…啓介?」
驚いた涼介の声に啓介の決心は大きく揺れた。
お兄ちゃんの悲しい顔は見たくない。
意地悪な自分の行動は怒られるため。悲しませたいわけじゃないのだ。
「遅くなったから怒ってるの?」
そう訊ねられてびっくりした。
啓介の計画では、怒るのは自分ではなく涼介だ。
「ちがう」
だからあわてて否定した。
「じゃ、帰ろう?」
ふわりと頭を撫でられる。
いつもやさしい涼介の手の感触に、啓介はふにゃんと頬を緩めた。
嬉しくて仕方ない帰り道の途中で、ふと啓介は思い出した。
(怒られなきゃいけなかったんだ!)
だから、家に着いてやらなければいけないうがいと手洗いしないでみた。
結果は、母親に怒鳴られて涼介に庇ってもらったのだったけれど。
宿題しないでいようかと思ったけれど、今日は宿題のない日だったりする。
お風呂で髪の毛洗わない!と言い張ってみようかと思ったけれど、いつも洗ってくれる涼介の手が大好きだから、それを拒否することは啓介には不可能だった。
啓介は、なんとなく悲しくなってきた。
結局、寝る時間になるまで涼介はにこにこととってもやさしかったのだ。
それはいつもと全く同じで…。
けれど、今日はそれじゃダメだったのだ。
「啓介?」
いつものように、枕を抱えて涼介のベットにもぐりこんできた啓介は、少し浮かない顔をしている。
涼介は心配になって小柄な弟を覗き込んだ。
「気持ち悪いの?調子悪い?」
訊ねると、ゆっくりと左右に首を振る。
「学校で誰かとケンカでもしたの?」
ベットの上で上半身を起こし、寝転んでいる啓介を見つめる涼介の目はいつも以上にやさしい。
啓介が大好きだよ、と何よりも語っているのに。
(でも、お兄ちゃんは本当はけーすけのこと、一番に好きじゃないんだ…)
悲しくて、思わず涙ぐみそうになる。
そんな啓介の心の中など想像もつかない涼介は、殊更やさしく訊ねた。
「どうしたの?言ってごらん。」
大好きなお兄ちゃんに心配かけるのはいやだけど、どう説明したらいいのか分からない啓介はただふるふると首を振る。
「誰か啓介に意地悪したの?だったらお兄ちゃんが怒ってあげるよ?」
その一言に、我慢していた啓介の涙がポロっと落ちた。
「啓介?」
涼介は心底あせった。
喜怒哀楽の豊かな啓介がわんわん泣くことは結構多い。けれど、こんな風に一生懸命我慢しながら涙をこぼすのはめったにある事ではない。
悔しくて泣くまいと我慢しながらこぼした涙とも違うそれ。
「…怒るの?お兄ちゃん」
恐る恐る見上げてくる瞳が愛しい。涼介は啓介だけのスーパーマンになりたくて力強く頷いた。
「怒るよ。お兄ちゃんがちゃんと怒ってあげるから」
(お兄ちゃんは、けーすけのこと怒らないのに、ほかの人のことはちゃんと怒るんだ。)
悲しくて。啓介はただ悲しくてふえーんと泣き出した。
もちろん、涼介は大慌てだ。
いつもだったら微妙に会話がずれていることに気付きそうなものだけれど、大事な啓介がこんな風に泣き出したことに、ただ焦った。
「な、泣かないで、啓介。どうしたの?お兄ちゃんに言ってごらん?」
お兄ちゃん…。
お兄ちゃんだからやさしいのかもしれないと、啓介は悲しい気持ちでそう思った。
(けーすけは、お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃなくっても大好きなのに。きっとお兄ちゃんはけーすけが家族だから好きなだけなんだ)
出た結論はそれだった。
何でそういうことになるんだと言われようがどうしようが、啓介はそう思ったのだ。
だからもういいっと、完全にいじけた気持ちで口にした。
「けーすけは、もうお兄ちゃんの弟やめるからいいっ」
「…っ!!」
言われた瞬間、涼介の頭は沸騰した。
いつもだったら、何でそんなこと言うの?とやさしく訊ねるところだけど、気付いた時には力任せに体格差のある、まだ小さい弟を押さえつけていた。
「お…にーちゃ…ん?」
びっくりした啓介は、これ以上大きくならないくらいに目を丸くする。
「…だ」
「なに?」
「絶対ダメだっ!」
それは啓介の記憶の引出しを全部ひっくり返しても、初めて目にする涼介の、怒った顔。
「啓介は俺の弟なんだからっ!他の誰にも譲れるわけないだろっ?!絶対にダメだっ」
しんとする。
驚いたまま固まる啓介と、らしくもなく、肩で息をする涼介と。
「ふっ…」
ぽろんと、再び啓介の瞳から涙がこぼれた。
涼介がはっとするのと、啓介がうわーんと声をあげるのとはほとんど同時。
「啓介、えと…」
「うわわーん、良かったよぉーっ」
「ごめん、啓介。驚かすつもりじゃ…」
「良かったよぅーっふえーんっ」
「ごめ…え?……良かった?」
涼介の目が、めったに見られないほど丸くなる。
そうしてやっと、涼介は啓介のささやかな計画を、啓介自身の口から聞くことになるのだ。
心配しないで。大好きだよ。啓介が一番大好き。
子守唄代わりにそう囁かれた啓介は、次の日、自信満々のマリちゃんがひるむほど堂々と、きっぱり言ったのだ。
「お兄ちゃんとけーすけは、らぶらぶなんだからな」
その日の朝、職員室で利発そうなきれいな顔をした3年生の男子児童が、1年1組の学級担任に、なにやら訴えていたとかいないとか。
そうして2校時。1年1組の国語の時間は急遽、がっきゅうの時間に変更され、先生の言いたいことは今度こそやっと、子供たちがほぼ理解することになったりする。
かわいい弟の泣き顔はみたくない!と心に誓っていた一人の少年が、弟の泣き顔のかわいさに、ちょっといじめてみたくなるのはもう少し大きくなってからの、また別なお話。
いずれにしても、今回はハッピーエンド。
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